1 陳情書が問いかけるもの
 6520名。平成18年3月17日「周産期医療の崩壊をくい止める会」が、厚生労働大臣に提出した陳情書の署名者の数です。この陳情書は、平成18年2月18日福島県立病院の産科医が逮捕され、3月10日福島地検がこの医師を起訴したことに対するものです。この起訴は、平成16年12月、帝王切開術中に妊産婦が亡くなられたことに対して、その刑事責任(業務上過失致死、医師法違反)を問うとするものです。逮捕されてから1ヶ月足らずのうちに医療関係者を中心として6520名もの人々が、この逮捕・起訴に対し、大きな懸念と遺憾の意を示した陳情書に署名したのです。私は、僅かな期間にかくも多くの方々が署名をしたこと、この署名の代表に、高久史麿日本医学会会長、黒川清日本学術会議会長がいらっしゃることに、大変驚きました。日本産科学会・日本産科医会が、抗議声明を出しているだけでも注目すべき動きですが、さらに医学の様々な分野の101の諸学会が加盟する日本医学会や、全国79万人の科学者研究者から選出された学術会議を、それぞれ代表する科学者2人がそろって、福島県の医師逮捕・起訴に関する陳情書を、代表者として政府に提出したことは、重大なことと受けとめなければなりません。
       
2 医療事故の原因を究明する必要性
 医療行為中の予期しない死亡事故につき、その家族が「医療側に非があるのではないか」と考えることは無理からぬところであり、「どの様な治療が行われたのか」、「適切な治療行為であったのか」と思うのは当然なことです。従って、不幸な結果に至る原因究明は、遺族の方々への説明責任という点からも極めて大切なことであり、医療側に科せられた重い責務ということができると思います。しかし、何よりもその原因や理由は何かを正確に理解しなければならないのは、医療側にこそあります。何故なら、不幸な結果を少しでも少なくするためには、不幸な事故の原因を究明し、それに基づき医療水準の向上改善や医学の進歩発展を図ることこそが必要だからです。 
           
3 刑事責任を追及することの意味
 今回、検察が福島の産科医を逮捕・起訴しましたが、ここに至る過程で、医療の素人である検察官が、医療の専門家である医師の協力なくして行ったとは、到底考えられません。しかし、先に見たとおりに、日本の医学会のほとんどが、総じて抗議の声を上げる今回の事態は、検察側が、医学的検討を正しく行ったのかの点に対して、疑問を投げかけています。さらに言うなら、医学的究明の為の検討と、法律的とくに刑事責任を問うための検討とは、自らその手法も、検討すべき対象も異なるものです。しかも、今日の医療は、システム医療、チーム医療と言われるように、1人の医師単独で行われているものではなく、また、血液行政や保健医療行政の社会的枠組みの中でのものです。それを、事故が起きた途端に、全てを1人の医師の刑事責任のみを問うと言う極めて単純化した今回のような形態として行われることとなり、その不合理性は明白です。当然、本来の医療事故に対する問題解決・原因究明には全く寄与しないことになることもまた明らかです。

4 産科が崩壊する。
 加えて、今回の陳情書に現れているように、僻地医療に取り組む1人医長体制の問題があります。今回の逮捕起訴を契機に、多くの1人医長の産科が、閉鎖に追い込まれ、私の地元である千歳の  病院も、産科が閉鎖される事態になりました。1人医長体制が、事故の元というのは簡単ですが、さらに深刻なのは、新たに産科医になる医師が急減しているという事態も、今回の逮捕起訴が少なからず、影響していると言われています。のみならず、分娩施設が急減しているのは、この十数年の傾向なのです。埼玉、神奈川という首都圏ですら一部地域で、十数年間で分娩施設が半減していると言う深刻な事態になっています。都立病院でも産科の受付を見合わせたり、その数の制限が行われているというのです。これらは、既存の産科医の中で辞める人が増えてきていると言うことです。産科医は、この20年間で千数百人減り、今年の医科大学の産婦人科医局への入局見込み数は例年の40%減とも言われます。例えば、弘前大学では、今年の新人医師の入局が、小児科、産婦人科でゼロ。京都府立医科大、琉球大の各産科への新人医師の入局者数は、ゼロと言うのです。ために、産科で、分娩の予約を受け付けてもらえない人が続出しているという、信じがたい事態がここ数年おきていると言うことです。
               
5 ハイリスクローリターンの職場と言われる病院勤務
 弘前大の例に見るとおり、医師の数が急減しているのは、小児科も同じです。今年、新たに小児科医になる医師の数が3年前の約半分になるということです。これは、超長時間勤務など勤務の過酷さ、医療事故の頻度が高く、法的リスクも高いという産科とも共通した問題があると言われます。しかし、こうした事態は、内科、外科を含む病院勤務の医師全体に広がりつつあると言われます。
現在の病院勤務の多くの医師は、週平均70時間を超える勤務を余儀なくされ、当直、夜勤が繰り返される日々であり、しかも、外来、病棟、手術と医師でなければできない勤めを休むに休めない状態が慢性化し、しかも極度の緊張を強いられる職場でありながら、その処遇はけっして充分ではないのです。現に、逮捕された先の医師も、その身分は地方公務員です。彼は、1年間で200例以上の分娩に対応したとのことであり、1日中オンコールの生活であったと言うことです。多分休む日も、ほとんどなかったのでしょう。そして、理由はあるとしても逮捕、起訴。全国の医師が、今回の事態に声を上げた理由が判るような気が致しました。
「いくら高い使命感があっても、ハイリスクローリターンの職場を選択する人は少ない。」(長谷川敏彦国立保健医療科学院政策科学部長)と言われるのも、致し方がないことです。しかし、事態は、さらに深刻です。長谷川先生の指摘によれば「国民全般がこの現状を直視し、理解し、解決方法を模索せねば、5年を待たずして日本の病院医療は崩壊する。」というのです。 
      
6 少子化対策も、国の将来の施策も、今行わなければ、手遅れに。
 少子化対策が、喫緊の課題として論議されています。しかし、現状での議論は、子育て支援とか、その為の税制とかですが、そもそも、子供生む環境が産科医、小児科医というレベルで、崩壊しかけています。その崩壊の方向へ一気に走り始めるきっかけになりかねないのが今回の福島産科医の事件です。  
 本来、司法が果たす役割は、国や社会の安全を守り高めることにあるはずです。それが、志に反して、逆行しているとすれば、恐ろしいことです。今考え直すべき時期に来ている、それを強く示唆しているのが、今回の陳情書の訴えていることと思います。   
 産科に限らず、あらゆる医療事故に対する司法的対応の仕方を根本的に見直す必要があると思います。第3者機関による事故調査や、事項調査結果の集積、分析そしてその結果を医療現場にフィードバックする必要が叫ばれています。 「5年を待たずして日本の病院医療は崩壊」させてはなりません。そこを守るのが政治の役目です。日常生活の安全、安心を守るためには、医療制度の充実は欠かせません。いまから、このための諸施策に全力でとりかからなければ、手遅れになる。
 今回の陳情書が語る内容を、重く受けとめなければなりません。